北村信彦 - HYSTERIC GLAMOUR –

HEADS TOKYO ”LESSON” のCURATORでもある 北村信彦さんにデザイナーになったきっかけから、最近ハマっている韓国CULTUREまでお話を伺いました。

「ヒステリックグラマー」を最初に知ったのは高校生の時で、グラマラスで意志の強さを感じさせる女性やサイケデリックなグラフィックのTシャツを周囲の友人、特にライブハウスのオーナーや先輩バンドマンが挙って着ていた記憶がある。

それから時が経ち、今一度北村さんの創作を振り返ると、服作りだけではなく、ヒステリックシリーズの印刷物やラットホールギャラリーを始めとしたアートワークに創作への一貫した姿勢を感じさせ、そこにはご自身が一から築き上げてきた比類なきカルチャーが存在しているように思える。

今回のインタビューでは、過去を振り返って頂き、当時のシーンとその中での生活をお聞きするのと同時に、ご自身の創作の背景や現在のカルチャーに対する思いについて伺った。

幼い頃のファッションや音楽、映画などのカルチャーに纏わる鮮明に残っている記憶について教えてください。

小学6年生の頃に見た「欲望(BLOW-UP)」(1967年、ミケランジェロ・アントニオーニ監督作)です。新聞のテレビ欄でこのタイトルを見つけて、何これ?と思い、両親が寝静まった後に見てみたら、あの内容の映画で…。オープニングからエンディングまで不思議な感覚、今まで味わったことがない感覚に陥りました。それまでの日常であれば、次の日学校に行くと昨夜の「8時だョ!全員集合」の話になるのですが、そういう会話に入っていけなくなりました。あれはなんだったのだろう…という記憶が鮮明に残っています。高校生の時に振り返って、映画に出ているバンドがヤードバーズだったとか、女優はジェーン・バーキンだったと気づきました。全ての派生に繋がる契機となった作品かもしれません。

「欲望(BLOW-UP)」を見た後に、気になって他の映画を掘り続けた訳ではないのでしょうか?

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そのまま映画やその他のカルチャーに興味を持つというよりも、あれはトラウマ的な体験でしたね。カルチャーに興味を持ったのはそのちょっと後、ビートルズやローリングストーンズが好きな従兄弟のお兄さんの家に遊びに行くようになった中学1年生の頃。部屋中にバンドのポスターが貼ってあるんですけど、当時はロックがどういうものかを認識していませんでした。同じ時期に従兄弟のお兄さんに「コンサート行くからついて来て」と言われて行ったのがスージー・クワトロのコンサートだった。その時もロックはわからなかったけれど、実際に見に行ってみたら、大人だらけの空間で、ステージ上ではスージーがボディスーツを着てベース弾いて歌っていました。完全に未体験ゾーンですよね。これがロックなのか、と。

情報ではなく肌感覚でロックとは何なのか、を感じたのですね。

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そうです。情報でいうと、中学生の頃はエアロスミス、クイーン、キッスが初来日する時期で、同級生の間では、下敷きに雑誌「ミュージック・ライフ」に載っている好きなミュージシャンのヴィジュアルを切り抜きするのがブームになりかけていました。自分も興味を持ち始めて、武道館にライブを見に行きました。「ぎんざNOW!」というテレビ番組でロックを特集する日があって、来日したクイーンやキッスが出演していました。それを見たさに早く家に帰って見ていたかな。まだMTVとかもない時代だったから、その番組で流れるMVはその時間でしか見ることができない貴重なものでした。

60~70年代の音楽を肌で感じながら、自分でもこういう世界を作ってみたいという思いはその当時からあったのでしょうか?

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作るところまでは考えていませんでした。もっと色んな音楽を聴きたいという気持ちが強かったと思います。中学生の時にバンドをやるきっかけがあったのですが、僕は演奏する側ではないな、と思いました。というのも、近くに凄くギターが上手い友人がいて。ジェフ・ベックの「スーパースティション」を次の日には完コピするような人で、確かプリズムからもスカウトされていたと思います。実家がお金持ちでエフェクターをたくさん持っていたし、中学生なのにフェンダーを使っていて。そいつと比べちゃうと僕はいいかなと(笑)。なので、皆が知らない曲を大貫憲章さんや渋谷陽一さんのラジオ番組で探したりしていました。

ファッションに関心を持ち始めたのはいつ頃ですか? 

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中学3年生か高校1年生の時に、ザ・フーの「クワドロフェニア」という四重人格を意味するアルバムが発売になって、そのアルバムには写真集が入っていたり、ライナーノーツを読むとモッズファッションのことが書いてあった。それに興味を持ち始めました。その後、「さらば青春の光」(1979年、フランク・ロッダム監督作)という「クワドロフェニア」の映画化が決まった。雑誌で試写会の応募があったのですが、落選して。それでも絶対に見たいから学校を抜け出して、会場まで行って警備員に直談判しました(笑)。そこで粘ったら見させてもらえて。その内容は自分にとって衝撃的でした。映画に登場した3つボタンのスーツを探しに行きましたが、どこにも売ってないですよね。結局、渋谷のファイヤー通りに「HELLO」というパンクショップがあって、そこに中古の3つボタンのスーツが売っていたかな。あと上野にモッズパーカを買いに行って。翌週くらいに、公開日に銀座の映画館に行ったんです。入り口でそれを着て立っていると、これから映画を観る人たちの中で、明らかに浮いていました。でも、みんなが見終わった後は「それどこで買ったの?」と質問攻め(笑)。そんな体験がありました。同時期に、デザイナーズブランドにも興味を持ち始めたかな。

その頃、頻繁に遊びに出かけていた場所はありますか?

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ちょうどに夜遊びを始めた時期でもありましたね。六本木の玉椿とかによく遊びに行っていましたよ。中学生の時に音楽を通して仲良くなった友人が高校を中退して、美容学校に通っていて。高校2年生くらいの時に、ヘアメイクアーティストの野村真一さんがアトリエ・シンというチームを作ったんですけど、僕の親友が最年少でメンバー入りをして。その伝手で夜の遊び場…クラブに行って遊んでいました。その時期から音楽だけではなく、色んなカルチャーを知りたいと思うようになりました。フランスのヌーヴェルヴァーグとか、アメリカのラス・メイヤーの映画を知るのですが、滅多に手に入りませんでしたね。見つけてきても、ダビングをダビングした画が汚いビデオとか。そういうモノでさえも貴重だったので、食い入るように見ていました。そんな時ですよ。「欲望(BLOW-UP)」というヤードバーズが出ている映画があると聞いて、見てみたら、あの時見たあの映画だ!と記憶が蘇ってきたのは。

 

 

様々なカルチャーを漁っていたのに、何故ファッションの道を選んだのでしょうか?

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最初は美容師になった友人から、スタジオで誰に会ったとか、誰を撮影したという話を聞いて、美容師になればミュージシャンと仕事ができるかもしれないから美容学校に行きたいと思って、ほぼ進学が決まっていました。その後、演出家の若槻(善雄)くんも通うことになる東京モード学園が新宿の西口に開校したことを知りました。その頃頻繁にレコードを買うために、西新宿に行っていたので、レコード屋に行った帰りに寄ってみたんです。高層階にあって環境も良いし、レコード屋も近いから凄く気に入ってしまって(笑)。まだ入学を受け付けていたから帰って親に交渉して、飛び入り入学しました。洋服の専門学校だと知ったのは入学した後です(笑)。デザインの専門学校なのかな?くらいのテンションでした。将来は音楽関係の人たちと仕事ができるような仕事はしたかったので、あまり気にしていなかったのかもしれません。

服飾学生の頃、その後に影響を与えるような印象的な出来事はありましたでしょうか?

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菊池武夫さんの「メンズ・ビギ」のショーかな。PARCO2に「メンズ・ビギ」の店舗があって、高校生の時から洋服を買うお金はなかったけれど、遊びに通っていて、販売員の方に可愛がられていました。その後モード学園に入学した頃に、「メンズ・ビギ」のショーがあるから見に来なよ、とチケットをもらいました。見に行くと、ロンドンのストリートキッズのようなモデルが洋服を着てショーに出ていて衝撃を受けました。それが生まれて初めて観たショー。かっこいいな、と純粋に思いました。後日「メンズ・ビギ」に行ってショーに出ていた服を買っていましたが、学生の時は誰が最初に最新の服を手に入れて、学校に着て来るか、みたいな風潮があったんです。僕は、販売員さんに新作のカタログを世に出る前に見せてもらって、欲しい服を事前に言っておいて、入荷する前の日とかに買ったから学校にも最初に着て行ける。でも2,3日経つと同じアイテムを着ている人がいるとその人の方が身長高いし、似合うよな、と思っちゃって(笑)。その辺りからデザイナーズブランドの洋服に関心がなくなって、今でいうヴィンテージ…当時はただの古着ですが、古着屋を回るようになりました。古着の場合は量販されていても一点物のような感覚があった。古着を着始めていたら、それどこで買ったの?とか頻繁に聞かれて、それはそれで学校内外で注目されていました。「ノブはそっちの方向が合うね」とも言われ始めていました。それからはデザイナーズブランドの服ではなく、古着を漁るようになりました。

オゾンコミュニティで働き始めたきっかけを教えてください。

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本来であれば4年間専門に通うところ、僕は2学年目を飛び級して、3年間で卒業しました。確か基礎科が2年、デザイン科が2年の計4年間だったかな。若槻くんはビジネス科だったので、2年制でした。学校生活2年目が終わった時に、彼は卒業してショーの演出会社に就職して、僕は残り1年あったんですけど、若槻くんから仕事の人手が足りないから手伝って欲しいと言われ、1年間そこでアルバイトとして働きつつ、若槻くんとの共通の友人がオゾンコミュニティの営業に就職していて、そこでデザインのアルバイトできる人を探していて、僕に声がかかった。そこにも1年通いながら、過ごしました。

その後どのような経緯でブランド創業に至ったのでしょうか?

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正直に言うと、オゾンコミュニティでのアルバイトと演出会社のアルバイトだけで十分生活が出来ていました。当時のショー演出の仕事というのは、例えば山本寛斎さんの両国国技館での大型ショーであれば、ショー本番前の1週間は自宅に帰れないほどの激務です。徹夜は当たり前で、正社員のため出勤、退勤時間が決まっていた若槻くんよりも給料をもらっていたと思います(笑)。仕事の内容もショーに関する最初のミーティングから本番はインカムマイクを付けてモデル出しまでを任せてもらえて、アルバイトなのにファッション業界の裏方的な仕事が出来ている実感がありました。その合間に、オゾンコミュニティのアルバイトで、週1回会社に行ってデザイン画を提出して、採用されると1枚に付き3000円程もらえるので、20,30枚描いてその分の給料をもらっていました。金銭的にも仕事内容的にも、就職決まらなくてもこのままで良いかなと思っていた時に、オゾンコミュニティからデザインの評判が良かったようで、ブランドを立ち上げないか、と声をかけてもらいました。

創業当初からコレクションブランドとは一線を画したような独自の路線を歩んでいこうと思っていたのですか? 

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1年間、ショーの演出会社でアルバイトをしていて、その間に2シーズン半程在籍していたので、春夏と秋冬のどちらのシーズンも観ることが出来ました。その当時は、ファッションショーブームの時期だったので、素晴らしいショーをするブランドがあるのとは対照的に、言ってたことと実際にやっていることが違うようなブランドが何故ショーをやれているんだろう、と懐疑的になるブランドもありました。そこでの経験を踏まえ、自分の場合、毎シーズンテーマを変えて創作するほどの熱量もないし、どうしようかなと考える時期もありました。その時に、色々調べていく中で「ディオール」のアーカイブ本とアートオブロックというサイケデリックなアートブックを見つけて。「ディオール」のアーカイブの本を見ていて、自分はこちら側ではないな、と(笑)。一方アートオブロックを見てみると、実際に身近なカルチャーだったし、これだったら何年も続けていけるかもしれないし、1つくらいショーがメインではない、カルチャーを全面に出した服を作っているブランドがあっても良いのかなという思いでスタートしました。

当初はウィメンズで開始したそうですが、そこに何か意図はあったのでしょうか?

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確かにウィメンズとして開始しました。ただ、当時の男性のロックアーティストは細身の人が多かった。例えば、デヴィット・ボウイにせよローリングストーンズにせよ、女性服を着ているイメージがあったんです。だからウィメンズ、メンズが明確に分かれていた時代に、ウチはユニセックスでやろうと思っていました。当時はそんなブランドほとんどありませんでしたね。バンドブームとかも相まって、男の子もウチの服を着てくれました。

創作を始める時の最初のイメージ像は女性でしょうか?男性でしょうか?

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女性をイメージして作ります。40年近く続けているので、お客さんの中には若い子や親子連れもいます。なので、自分の理想やミューズだけを追い求めて作る姿勢は違うかな。でも、こういう子が着てくれたら…というイメージはあるかもしれません。特定の人物ではありませんが、現在であればインスタグラムで、こういう子が着てくれたら、というイメージを拾い集めることが多いです。変哲が無いようなボーダーの服でもこういう子たちが着るとムードが変わって来るじゃないですか。ウチの場合、ジョニオ(「アンダーカバー」デザイナーの高橋盾)や宮下(「タカヒロミヤシタザソロイスト.」デザイナーの宮下貴裕)のブランドのような構築的な服ではないカジュアルウエアですから。イメージ像はあります。ジャンクな毛色で音楽好きで、男に媚びず、自分を持っている意志の強さがあるだろうなとか。

 

「ヒステリックグラマー」を紐解く上で、印刷物の存在は欠かせないと思います。最終的な成果物が洋服になることと本になることの違いはありますか?

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イメージは同じです。印刷物に関しては、撮影を始めた頃はタイやメキシコ、アメリカ、日本であれば渋谷、原宿、新宿の交差点で写真を撮っていました。ただ、良いモデル使って良い環境で撮影しても写真家が良くないと成立しませんよね。そうであれば、写真家に焦点を当てた作品を作ろう、という話になり、森山大道さんの写真集などを制作しました。それが原点です。それも2000年代に入ると、海外の書店に行くと日本の写真家の写真集がヴィンテージとしてガラスに入っていて、高値で売られるようになりました。その現象を見て、僕らのやることないねとなって、であればもう一度ファッション写真を真剣に撮って纏めるのも面白いかなというのがこの辺のヒステリックシリーズです。

写真家はWATARUさん、スタイリストは野口強さんなど、固定のスタッフで撮影されることが多かったのでしょうか?

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スタッフはほとんど変えませんでした。各号のコンセプトによって、スタッフを変える案も良いと思いますが、個人的にはプロジェクトとして、同じメンバーでやりたかった。ロックバンドも同じメンバーで色んな場所をツアーで回りますよね。あの感覚と同じで撮影スタッフを変えずに色んな場所で撮りたかった。同じモデルを使うことも多々ありましたよ。自分が過去に影響を受けたこととか、その時に興味があったことを自分なりに解釈して撮影しました。

印象に残っている撮影はありますか?

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デトロイトでの撮影はよく覚えています。行く前にNYやLAの友人たちに危ない街だから絶対にやめたほうがいい、と言われていました。最初、写真家のWATARUと一緒に撮影の下見に行ったんです。確かその直前にイギー・ポップがストゥージズで来日して、フジロックの時に会う機会があって。もう亡くなったロン・アシュトンがストゥージズのアーカイブ作品を見せてあげるから遊びに来なよ、と言ってくれたので、それは行くしかない、と思って(笑)。行ってみるとこんなに可愛い街はないなと思い、撮影をすることに決めました。撮影では現地の人たちが物凄く協力的で意外でした。

怪しいと思うのではなく、面白がってくれたのでしょうか?

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そうだと思います。バイクを貸してくれた女の子がローラーゲームというスポーツをやっていて、デトロイトにいくつかローラゲームのチームがあるのですが、大会の前日に全チームを集めてくれて。デトロイトの街でこんな撮影してくれるなら協力するよ!と言ってくれて。とりあえずTシャツとステッカーを持って行って、スタイリングして試合風景を撮影しました。

 

生感が伝わるドキュメンタリー的な写真ですね。

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ドキュメントであったり、映画的であったりしますよね。どの女の子も女優みたいな表情で。楽しかったですよ。そういえば、その撮影の時に、音を流そうという話になって。村八分の1973年のライブを爆音で流したら、これは日本のバンドなの!?いつの音源?とみんなが駆け寄ってきたので、教えてあげたら、パンクよりも先にこの音やっていたの!?やばい!と凄くテンションが上がっていましたね(笑)。MC5やストゥージズが生まれた街の人たちが村八分をクールだと言ってくれて嬉しかった。みんなメモして帰りましたよ。

彼女たちも感度が高いですね。

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街がロックだし、エレクトロ系の音楽に関してもデトロイトテクノというジャンルもあるくらいですからね。幼い頃からそういう音に対して敏感だと思います。あとは1967年に暴動が起きていますから、色んなことを街として体験してきたと思います。

他にも印象的な撮影はありますか?

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デトロイトの8 Milesの近くのロケーションでの撮影を一冊にしたのも結構面白いですよ。白人のアーティストが作った「シアタービザー」という施設です。映画のセットのようですが、全部彼らが全て作っていて、今は取り壊されていますが、当時は常設していました。このように面白いロケーションで映画的に撮影したり。あとはHYSTERIC PO BOYSという3人組の架空のガールズバンドを設定した撮影もしました。映画「ラスベガスをやっつけろ」(1998年、テリー・ギリアム監督作)をイメージした撮影もありましたね。これも面白かったですよ、プロップも自分たちで全て揃えて。作者であるハンター・トンプソンが実際に使っていたタイプライターと同じ品番を用意する徹底ぶりでした。

 

現在ではこういう貴重な紙媒体が高値で売られることが多いと思います。

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印刷物はそこが良いと思います。結局それが一人歩きして、20年後にその時の若い子たちがその存在を知ってくれて、色んな方法で探すという現象が生まれる。その一方で疑問に思うことは、例えば若いミュージシャンがインディペンデントで良い音を作っても、ネット配信で止まってしまうことです。CDやレコードとして残さない。20年後に若い子たちがどうやってこの音を掘るの?と思います。レコード会社や出版社の人たちも口を揃えたかのように、CDや本は売れません、と言ってしまう。どんな形でも少ない数でも良いから将来の若い子たちのために良いモノは残してあげないと…と思っています。

 

様々なジャンルでアーカイブを再解釈したような作品が見られますが、ご自身の思う現在のアーカイブの台頭に対してどのように感じていますか?またアンティークとヴィンテージの違いとは何だと思いますか?

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単純に年代の違いでしょうね。あとは例えば今日の午前中も60年代、70年代のアダルト映画のポスターを漁っていたんですよ。ヴィンテージポスターですね。それを漁っていると面白いのが「アダルトムービー ポスター」で検索すると結構良いモノが800円とかで買えたりします。ただ、そこに「ヴィンテージ」という言葉を入れると同じものでも高額になる。個人的には価値は同じだと思っています。もちろんそれが名前の通った人の作品であれば仕方ないと思います。コレクターがいるからオークション価格になっちゃう。ロックT(シャツ)もそうですよね。家具も車もそう。ヴィンテージという言葉が入るだけで価値が変わってしまう。

作品をフラットに観ることを心がけているということでしょうか。

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そうです。むしろ安値で探すことに対して価値があると感じています。その方が圧倒的に難しいですしね。それはヴィンテージ品もアート作品も同じです。そのため、大金を出してアーティストの作品を買う価値観は僕にはありません。最初にそのアーティストがギャラリーで展示する時が最高地点なので、その時に手を出すべきだと思います。例えば、アンディ・ウォーホルであれば、当初は200万円くらいで買えた作品が20年後には何億ドルとかですよね。オークションで数億ドルで買うことよりも、ギャラリーで200万円で買って、作品を維持することに価値があると個人的には思います。

 

SNSを始めとしたデジタルコミュニケーションに関してはどう思いますか?

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情報ツールとしては良いと思います。そこで作品を紹介する作り手の気持ちはわからないかな。盗作される可能性がありますよね。もし作品を載せるのであれば、僕は雰囲気だけが伝わるディテールしか載せません。あとは複写は載せるけど、オリジナルは載せないとか。作品を包み隠さず載せてしまうフォトグラファーやアーティストもいますけど、なんで自分の作品を下げるのだろう、と疑問に思います。

現在、気になるアーティストやカルチャーはありますか?

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韓国の映画や音楽などのカルチャーですかね。このコロナ禍で韓国カルチャーに助けられたと言っても過言ではありません。この期間に、ドラマや映画、音楽を調べる時間が出来て、韓国のポップスは日本のアイドルに近いのかなと思っていたのですが、真剣に聞いてみたら楽曲のレベルの高さに驚きました。アメリカのチャートに韓国のアーティストがランクインするのも理解出来ます。ジャンルでいうと70年代のコリアンサイケデリックやディスコも面白い。数は少ないんですけどね。

 

ここ10~20年くらいで韓国カルチャーが世界中で旋風を巻き起こしていて、特に映画は海外のコンペティションで最優秀賞を受賞していますが、このような現象が生まれていることについてどう思いますか?

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この話を日本の映画関係者に話すと、韓国は国がバックアップついているから…と言うんですよ。でも日本映画も60年~70年代に良い作品がたくさんありますよね。当時もバックアップなんてなかったことが多いだろうし、むしろ今より低予算だった可能性が高い。だけど、先程のレコード会社や出版社の言い分を聞くに、カルチャーが生まれる環境ではありません。社会や政治へのアゲインストとして生まれたのがサブカルチャーだという側面がありますよね。アメリカであればベトナム戦争で国に対抗して戦争反対で生まれたサブカルチャーがあります。日本にも60年後半から70年のカルチャーの背景には当時の社会情勢への反抗が垣間見えます。韓国は15年くらい遅れて80年代にそれがあったと思います。民主化運動などですよね。一概には言えませんが、社会への反抗として生まれたのが現在の韓国カルチャーなのではないでしょうか。実話を元にした作品がたくさん生まれていることも因果関係があると思います。

時節柄「新たな日常」に慣らされている観がありますが、変えてはいけないことについて、現在の仕事をしている立場で教えてください。

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洋服の世界は、色々なジャンルでデジタルな世界が構築されても、アナログな世界です。服は人間の五感で感じるアイテム。その証拠に、身体の不自由な人の中でも感性が豊かな人でお洒落な人がいますよね。感性が鋭い人たちが手にとってこの服良いな、と感じられるようなレベルは保ちたいなと心がけています。それを実現するには、服を作る工場や長く付き合いの職人さんとかは絶対に閉ざしてはいけないと思います。作る側の宿命ですよね。

 

<INTERVIEW & TEXT>  KIWAMU SEKIGUCHI (QUOTATION) 

<PHOTOGRAPHY >     TADASHI MOCHIZUKI